2015年11月25日

横浜・伊勢佐木町 物語<86>


イセザキモール全体が音楽&映像タウンと化す…!?


かつての “はまっパレ!” は伊勢佐木町の最西端となる七丁目を突き抜けて、
さらに1キロメートル近く足を延ばした蒔田公園が最終地点だった。

イセザキの中心よりもかなり離れたスポットまでパレードがなされていたのだが、
そんな状況下でもゴールにたどり着くまでのコースには沿道に人垣ができていた。

だが、時代とともにレジャーが多様化してきたこともあってか、
“はまっパレ!” の集客そのものが最盛期の半分以下となった。

そのうえ一大繁華街だった伊勢佐木町のブランド力低下が
ビッグイベントの観客者数減少に拍車をかける。

このように最近の “はまっパレ!” の摸様を垣間見るだけでも、
この街の地盤沈下はもはや隠しようもない。

横浜市が誇る最大のイベントとはいえ、
四丁目を過ぎたあたりから目に見えて聴衆の数は少なくなっていく。

その昔、市街地から離れた蒔田公園までぎっちりと人の波で埋め尽くされていた
ころとは雲泥の違いだ。

こうした現状に危機感を募らせたのか、
伊勢佐木町の再生・活性化に向けて新たな取り組みがスタートした。

とりわけ、過去の成功体験をもっていない若者は現況を直視できる。

華やかだったころの呪縛からなかなか解き放すことができない年嵩の大人たちと違い、
彼らには捨てがたい “遺産” があるわけでない。

こうして若者が中心となり、街に活気を植えつける試みが近年胎動しつつあるのだ。

また前述のごとく、かつての賑わいが肌に染みついている大人たちも、
この土地に根を張る遺伝子を受け継ごうと重い腰を上げた。

さらには名門復活に手を差しのべるのは地元の人間だけではない。

この日の “はまっパレ!” にて2年連続で伊勢佐木町チームのフロートに乗り、
およそ4キロメートルの道のりを、声をからして新バージョンの 「伊勢佐木町ブルース」
を歌いつづける若手3人組ミュージシャンJOHNLOSは他都県の出身だ。

彼らは、なんとかこの街が甦ってほしいと願い、“よそ者” でありながらも
今から40年ほど前にここから誕生した名曲を自ら現代風にアレンジして熱唱する。

そしてまた、伊勢佐木町は我が国の映画産業が巣立った元祖 “映画の街” でもある。

ここ数年で映像の世界もアナログからデジタルへと急速に切り替わっていったが、
撮影・映写の仕組みがどう変わろうと 「映画の街という遺伝子」 がそう簡単に
組み換えられることはない。

それを裏づけるような取り組みも、JOHNLOSと同様に伊勢佐木町が地元ではない
都市プランナー櫻井淳の手で実験的にスタートした。

こんな形で若い世代と円熟した世代、そして地元の人間と外部の人間、それらが
ほどよく調和し、名門復活に向けて新しい “まちづくり” がなされようとしている。

その中心テーマはあらためて強調するが 「音楽と映像」 が主体となる。

それは伊勢佐木町のルーツともいうべき要因であって永遠に閉ざされることはない。

賑やかだった時代からこの街には音楽が鳴り響く。

国内最大級のレコード店だったヨコチクの店頭では多くの歌手が新曲をアピールし、
それがヒット曲を生む原動力となった。

「伊勢佐木町ブルース」 の青江三奈をはじめとして 「よこはま たそがれ」 の五木ひろし、
「ふりむけばヨコハマ」 のマルシアなど枚挙にいとまがない。

また横浜市出身の大御所、美空ひばりもよくヨコチクを訪れた。

こうして “ヒット曲の聖地” と呼ばれた伝説のレコード店もここ伊勢佐木町に存在した。

さらには二人組ボーカリスト 「ゆず」 がこの街からブレークしたのも記憶に新しい。

そんな、音楽と縁のある街という要因はこれからも大切にしていきたいものである。

一方の映像も同様だ。

その昔、伊勢佐木町には数多くの映画館が立ち並んでいて、
我が国最強の映像タウンだった。

横浜は神戸や長崎に勝るとも劣らない大きな港町だけあって舶来の文化が
真っ先に上陸、映画用のフィルムも例外ではなかった。

上陸後それがいち早く届けられる最たる場所が伊勢佐木町であり、ここでフィルムの
入った袋の封を切ることから 「封切」 という映画用語がこの街から生まれたほどである。

このように、音楽と映像はこの街にとって切っても切れないファクターだ。

それらを中軸とした 「新たなまちづくり」 が、今まさに始まろうとしている――。

< 了 >

夜景2
Yahoo!「伊勢佐木町の画像」より


Posted by やすちん at 01:16│Comments(0)
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