2015年11月02日

横浜・伊勢佐木町 物語<63>


JOHNLOSと 「伊勢佐木町ブルース」 との出会い


海野哲也の母親が幼少のころ横浜・保土ヶ谷に住んでいて、
なおかつ若いころは横浜松坂屋の前身である野澤屋に勤めていたということ以外、
JOHNLOSはヨコハマどころか、伊勢佐木町ともなんら接点はなかった。

それなのに彼らはなぜ伊勢佐木町でライブをするようになったのか――。

平成18 (2006) 年、この年の1月から毎週日曜日になるとJOHNLOSは
錦糸町駅北口の路上でストリートライブをやるようになった。

ここが彼らの拠点となったのだが、拠点といっても彼らがライブをするために、
いつもスペースが確保されているわけでない。

俗に 「ゲリラライブ」 といわれるもので毎回 “場所どり” をしなければならず、
なかなか苦労が絶えない。

また近くの交番に駐在している警官にもライブを黙認してくれるように、
自分たちの印象をよくしておかなければならない。

そんなある日、ストリートライブをしているところにひとりの男があらわれた。

「ちょっと話があるんだけど……」

JOHNLOSの4人は緊張して身を硬くした。

差し出された名刺には 『衛藤弘幸』 と記されてあった。
これまでにも衛藤は何度か彼らのライブを聴いたことがあるらしい。

衛藤はビクターエンタテインメントで音楽アーティスト関連の職務に就いていたが、
先立って退職されていた。

そこで、新たに音楽事務所を設立しようとしていて、その所属第一号のアーティストに
JOHNLOSをスカウトしようと彼らに注目していたようだ。

ここ錦糸町駅周辺はインディーズのミュージシャンが曜日に関係なく、
プロモーションライブを敢行するメッカとなっていた。

日曜日ともなると錦糸町駅北口および南口ともに自分たちの音楽を聴いてもらおうと
スペースの争奪戦が起きる。

そんなエリアだから衛藤のようにスカウト目的で街を訪れる “プロ” も少なくない。

JOHNLOSの路上ライブは午後1時にスタートし、
途中休息をとりながら3回の演奏がなされた。

その休憩時間に衛藤は彼らに対して自分の計画を打ち明けた。
それと同時に、彼らの曲調に合ったカバー曲をいくつか提案した。

それは、のちに彼らのメインレパートリーとなる 「伊勢佐木町ブルース」 をはじめとして
「勝手にしやがれ」 「22歳の別れ」 などだった。

無名のアーティストをこれから世に売り出していくには、
誰もが聴いたことのあるカバー曲が効果的となる。

そのことは長年ビクターで音楽の仕事に携わってきた衛藤には
すっかり熟知していたことなのだ。

いまでは多くの音楽ファンが知るメジャーとなったEXILEなども、
まだ世間に名を売る前はカバー曲が少なくなかったことがそれを裏づける。

さて、衛藤があげたカバー曲のうち 「伊勢佐木町ブルース」 は
JOHNLOSのメンバーもほとんど聴いたことがなかった。

1978年および1979年生まれのJOHNLOSメンバー4名は青江三奈の生声で
この曲がラジオやテレビから流れていた時代のことはまるで知らない。

この歌が大ヒットしたのは昭和43 (1968) 年だから無理もない。

そんなタイトルの歌が昔流行したことは人づてに聞いていた。

子どものころ、なにかで聴いたことがある、ため息を強く出す色気たっぷりの曲だ……
など、若い青年たちの頭の中でおぼろげな記憶が弾けた。

「自分たちのスタイルでアレンジしたら、すごくかっこよくなるかもしれない」

そんな直感めいたものを覚えたと、哲也は原曲を聴いたときのことを振りかえる。

<以下、つづく>

歌碑3
Yahoo!「伊勢佐木町の画像」より


Posted by やすちん at 00:22│Comments(0)
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