2015年10月03日

横浜・伊勢佐木町 物語<33>


この街のことをブログで全国に発信していこう


メンバー8名と区役所に乗り込んで役人たちにプレゼンテーションした夜、
井上祐喜は自宅で父親の信行と酒を飲んでいた。

街の若者たちがABYという集団を発足させ、その会長に息子が就いたことは
協同組合の副理事長である信行はもちろん知っている。

父親が事情をわかっているだけに、
これからのABYの行く末についてアドバイスを仰ぐとともに、
昭和20年代に生まれた父親に、井上はどうしても聞いておきたいことがあった。

「このあたりに昔、滑走路があったって憶えてる?」

信行はグラスに伸ばす手が一瞬止まり、息子を見つめて答えた。

「オレが生まれたころの昭和26年にはすでにあったらしいが、さすがに記憶にないなぁ。
四歳のとき、幼稚園に通い出したころにはもう空き地になっているどころか、
道ができて、すでに家が建っていた」

昭和20 (1945) 年の終戦直後、
伊勢佐木町一・二丁目はアメリカ陸軍第八師団に接収された。

その数年後には徐々に接収解除となるが、
米兵が肩で風をきって街を闊歩する風景が日常だったという。

さらに興味深い目を向ける井上に、父親の信行が自分の過去をめぐっていく。

「オレのオヤジが戦争にいって帰ってきて、終戦の直後でウチには漆器がなくて、
趣味で写真撮影をやってたから店の2階で写真屋を始めたんだ。
そこに米兵がよく写真を撮りにきて、オレは米兵といっしょに写真を撮らされたりしていた。
オレにとって米兵は身近な存在だったんだ」

そんな、終戦から間もないころの話を聞いているうちにABYメンバーで何度か話題に
なったことがある 「根岸家」 のことを訊ねてみた。

かつてイセザキ地区にあった24時間営業の伝説の酒場だ。

女を連れた米兵やヤクザ、ポン引きに娼婦、
それを見回りにきた警察もいっしょに飲んでいたという。

その話を聞いただけで井上にはさまざまな人間模様を想像することができる。

「1階はカウンターとテーブルの大衆酒場で、そこではバンド演奏なんかやっていた。
2階はお座敷の宴会場になっていて、昔は宴会をやると必ずといっていいほど
最後には集合写真を撮ってたんだ。それをオヤジが撮りにいくっていうんで、
それにくっついていったことはある。けど、大人になって酒を飲める歳になったら、
さすがに根岸家にはビビっていけなかったなぁ……」

どうして根岸家はほかの酒場とちがうのか、いまでも語り継がれるような酒場なのか、
井上はさらに父親に対するリサーチを展開した。父親の話は続いた。

「向こうに赤線と青線があって、
そのころの名残があるから時代の産物として記憶に残っているんじゃないかな。
昔のイセザキは “玉木屋” で背広を買って “太田なわのれん” で鍋を食って、
赤線で遊んで、最後は“根岸家”で一杯飲んで帰るのがステータスだった。
東京の人たちにとってもそうで、銀座で遊んだ後はみんなグルマを飛ばしては
イセザキへ来てたんだ。そりゃもうハイカラな街だったんだよ」

ブログ 『空港の街』 の運営責任者として、
いつのまにか井上は“ネタ集め”に奔走しているような錯覚にとらわれた。

いやっ、実際に情報収集をしていたのだ。この街の歴史を日本全国に発信し、
興味をもってもらって街を訪れるようになる――
それがブログを開設した大きな狙いでもあるのだ。

昭和56 (1981) 年、根岸家は焼失する。

街をクリーンなイメージに変えていこうとする流れのなか、
もしもいま根岸家があったとしたら、きっと時代にそぐわないものとなっていたことだろう。

だけど、すべてを否定し街を変えていくことは、
伊勢佐木町を象徴する人間臭さを同時に失っているように井上には思われた。

<以下、つづく>

街風景5
yahoo!「伊勢佐木町の画像」より


Posted by やすちん at 01:15│Comments(0)
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